新型コロナウイルス感染症の拡大により、1年の延期期間を経て2021年7月23日に開幕した東京オリンピック・パラリンピック競技大会。オリンピックという最大級の国際イベントの感染症対策を科学的見地から立案したのが、リスク学、環境学、医学をはじめとする有志の研究者チーム MARCO(MAss gathering Risk COntrol and COmmunication)。日本語では、「大規模集会におけるリスク制御とコミュニケーション」という意味でその頭文字をとられています。研究当初は新型コロナウイルスのエビデンスや情報が限られていた中、MARCOはどのように知見を生み出し、集約して、実効性のある対策を立てることができたのでしょうか。
その理由とMARCOが考案したリスク評価の方法について、MARCOの発起人の一人で、代表を務める東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長・教授の井元清哉先生と、リスク学の研究者として参画し感染症対策のコア部分を担った花王株式会社研究開発部門部長の藤井健吉さんに伺いました。[取材:2022年3月]。
―まずはMARCOについて、教えてください。どんな組織なのでしょうか?
井元清哉教授(以下、井元先生):MARCO(MAss gathering Risk COntrol and COmmunication)は、「感染対策を科学的に研究して、その成果をオリンピックという舞台で社会実装する」ことを目標に、リスク学、環境学、医学、情報科学、理学、工学など多岐にわたる研究者がそれぞれの所属を超えて集結したVirtual Institute(バーチャル研究所)です。一般的なプロジェクト型の研究チームでは、それぞれ個別に研究費を獲得して進めていくのですが、MARCOにはそういったお金は一切なく、同じような想いを持つ有志が集まったプロジェクトチームです。
MARCOの代表的な取り組み
―MARCOは研究者有志の集まりとのことですが、結成のきっかけを教えてください。
井元先生:きっかけの一つがオリンピックの延期でした。みなさんもご存じの通り、2020年7月の開催予定が、新型コロナウイルス感染症の拡大の影響から2020年3月24日に「1年程度の延期」が決定しました。やはりオリンピックの開催には新型コロナウイルス感染症への対策が必要不可欠だったんですね。そうした中で、2020年4月医学雑誌「ランセット」※に掲載された論文に「マスギャザリングイベントにおけるリスク管理アプローチの重要性」についての議論があり、東京オリンピックにも触れられていました。
ここで強く思ったのが、“日本の責任”です。「日本で開催するオリンピックなのだから、日本が責任を持って判断しなければならない」ということです。開催するのであれば、オリンピックというスポーツ祭典をスタジアムで楽しみたい、アスリートを応援したいという方も多いでしょうから、そういった思いもかなえられればと考えていました。開催延期が決定し、「まだ準備の時間はある」と考えました。福島県立医科大学教授の坪倉正治先生から「オリンピックでの感染症対策を科学的に立案するためのシミュレーション研究をやろう」というお話があって、いろいろな研究者に声を掛けながら有志を募りました。
MARCOの具体的な活動が始まったのは、2020年の4月末のことです。毎週木曜日19時から2時間程度、オンラインミーティングを開催しました。オンライン会議のアプリケーションはこれまでもありましたが海外の研究者と本当にたまにミーティングをするくらいで、あまり活用していた訳ではなかったですね。コロナが広がり、使わざるを得ない状況になったわけですが、実際に始めてみると、移動時間も必要ないですし、多くの方が一堂に会しやすかった。加えて、当日に参加できなくても後で録画を見れば内容を把握でき、ちゃんと議論をフォローできる。このVertual Instituteはコロナ禍ならではの取り組みでした。花王の藤井さんとも毎週オンラインで議論していましたが、直接お会いしたのはプロジェクトが始まってから半年以上経っていましたよね。
藤井健吉さん(以下、藤井さん):そうでしたね。私たち花王がこのプロジェクトに参加するきっかけとなったのは、大阪大学感染症総合教育研究拠点・特任教授(当時、福島医大)の村上道夫先生から「井元先生と坪倉先生が中心となって始めるプロジェクトにリスク学分野の有識者としてぜひ参加してほしい」とお話をいただいたことでした。2020年4月段階で、花王は新型コロナウイルスを不活性化させる技術を確立し、日用品を用いた感染対策法を検証しているところでした。その際に村上先生とは、「A型インフルエンザのウイルス伝播モデル」についての論文を新型コロナウイルス感染症のリスク評価に発展できるはずだとお話をしていたところだったんです。今回のMARCOの取り組みのコアとなった感染リスク評価法は、花王が検討していた知見をオープンイノベーションに発展させ、村上先生や産業技術総合研究所の先生方らMARCOの強力な布陣で完成させたものです。花王は一企業ではありますが、世界中が心配していたオリンピック開催に、リスク評価にもとづく判断材料を提供できたことは社会的な意義も大きかったと感じています。花王が持っている化学物質リスク評価の経験やノウハウから、コロナ禍という社会問題に立ち向かうことができるのではないかとの想いから、MARCOに参加できてよかったです。
―MARCOは、東京オリンピック・パラリンピック競技大会の感染症対策にどのように関わったのですか。
井元先生:オリンピックにおける感染症対策の代表的な取り組みとして、オリンピックの中でも最大かつシンボリックなイベントである開会式、閉会式の「リスクアセスメント」があります。2020年に予定されていた開会式であれば、観客の入退場を合わせてプログラム全体で約5時間、新国立競技場に6万人を超える人が集まります。当時の状況として、何も感染症対策をしないまま、いわばノーガードで行われることはないと考えていましたが、「対策を何も行わなかった場合に比べて、対策を行った場合はどれくらい感染リスクを下げることができるかを見積もること」をコンセプトに掲げました。
藤井さん:このリスクアセスメントのルーツと言っていいのが、先ほどお話した「A型インフルエンザウイルスの伝播モデル」ですね。世界中の膨大な論文や研究データから、花王では新型コロナウイルス感染症対策へのアプローチを探っていて、この古い論文にたどり着きました。花王からMARCOのリスク評価班にこの論文の考え方の筋の良さをお話させていただいたところ、「新型コロナウイルスの伝播モデルにうまく発展できそうだ」ということで、具体的な感染経路伝播モデルの構築と対策有効性評価へと一気に話が進んでいきました。
井元先生:藤井さんが示してくれた論文では、「行動の積み上げ」という方法でリスク評価をしており、これは非常に合理的で今回の目的に合っていたと思います。もう少し具体的に説明すると、ウイルスは、接触感染、飛沫感染、空気感染など、人への伝播の経路があって、それぞれの人の行動によってどこの経路からウイルスが入って来るのかが決まります。それぞれの経路に対して、マスクをするなり、手を除染するなり、さまざまな対策が考えることができます。それぞれの対策にどの程度効果があるのかを見積もって全体のリスクの解析につなげることができるわけです。
Murakami et al. (2021) Microbial Risk Analysis.
doi: 10.1016/j.mran.2021.100162
―私企業としてMARCOに参画した花王が期待された役割や貢献できたことはどんな点だとお考えですか?
藤井さん:私たちが参画した2020年6月時点で、各分野の先生方が集まっておられましたが、対策技術についての科学的説明や評価は十分とは言えなかったと思います。感染症対策となるとアルコール剤を使うことを想像される方も多いと思いますが、花王が得意とする界面活性剤でも効果があることを確認していました。アルコール剤だと輸送や保管もより気を使いますし、お子様からお年寄りまで多くの人が集う場所においては、対策自体の安全性や誤使用の起こりにくさも重要です。感染リスクシミュレーションにもとづき、対策の有効性評価の設計図を組み立てられたのは、日用品製品を持っている花王とアカデミアの連携だからできたことだと自負しています。
井元先生:藤井さんがおっしゃる通り、アカデミアな研究者だけでは、実際の現場での対策へ解析結果を落とし込むことは難しかったと思います。特に今回一緒に取り組みをさせてもらって感じたのは、製品に関することだけでなく、人の健康に関するあらゆる研究を、花王さんでは行われていることでした。さまざまな研究を通して得た知見をオープンイノベーションという形で、MARCOにご提供いただけたのもとてもありがたかったですね。「オープンイノベーション」は聞こえが良い言葉でいろんなところで使われていますが、企業の利益に関わることなので、なかなか実践できる企業ばかりではないと思います。特に、新型コロナウイルスの世界的パンデミックの中で、叡智を結集して感染対策評価を進めていくことが求められたMARCOの中で、花王さんのスピード感は本当に頼もしかったです。
藤井さん:花王としては、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で多くの企業や人の社会活動がこれまで通りに進められなくなってしまった状況の中で、オリンピックをはじめとするマスギャザリング型イベントだけでなく、根拠にもとづくウイルス感染対策が日常生活にまで社会実装されていくには、オープンイノベーションは大変重要なことだと考えていました。ウイルスの動態を知り、身の回りの感染経路の急所を正しく対策し、自分と周囲を共に守る生活・仕事・イベントの環境をつくることが大切なのです。
花王とKPSの活動はまさに、花王の感染症対策の研究成果や知見を社会実装させようという取り組みだと言えます。いま不安を抱えながら感染症対策に取り組んでいるさまざまな業界団体や企業の担当者の方に、確かなエビデンスを示し、“安心して実践できる”感染症対策のノウハウを伝えていく。私たち花王の目指す社会実装の実現の広がりにもつながっている。MARCOの活動を通じて得られた知見も、どんどん現場に届けていきたいですね。
井元先生:私も感染対策の社会実装というのはとても重要なことだと思います。今回の取り組み、「大規模集会(Mass Gathering Event)を対象とした解決志向リスク学の実践」では、日本リスク学会のグッドプラクティス賞をいただき誇らしく思う一方で、花王さんをはじめ多くの方にご協力いただいたことを感謝したいと思います。
井元 清哉(いもと せいや)先生
●所属・職務
東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長・教授
●専門分野
ゲノム情報学、システム生物学、統計科学、データサイエンスなど
●経歴
1996年九州大学理学部数学科卒業、1999年日本学術振興会特別研究員(統計科学)、2001年九州大学大学院数理学研究科博士課程修了、博士(数理学)。2001年東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター博士研究員、助手、准教授などを経て現在ヒトゲノム解析センター健康医療インテリジェンス分野教授、厚生労働省医療統計参与、ヒトゲノム解析センター長。スーパーコンピュータを用い、ゲノムデータなど高次元大規模データから知識発見・予測を行うための統計学理論、方法論の研究に従事。JST CREST コロナ基盤 研究代表者、AMED革新がん(領域1-14)解析班 研究代表者、解析・データセンターWG長。
2020年4月 MARCOを立ち上げ、代表に就任。
藤井 健吉(ふじい けんきち)さん
●所属・職務
花王株式会社 研究開発部門 研究戦略・企画部 部長(レギュラトリーサイエンス担当)
●専門分野
リスク学、安全性評価、疾患制御研究、化学物質管理、レギュラトリーサイエンスなど
●経歴
北海道大学理学部高分子機能学卒業、理化学研究所、北海道大学遺伝子病制御研究所、北海道大学大学院医学研究科助教、博士(医学)。2009年、花王株式会社、安全性科学研究所にてリスク評価研究に従事、化学品、化粧品、食品安全の製品安全性と国際規制調和を担当、同研究所レギュラトリーサイエンス戦略室長を経て現職、兼務で花王衛生科学研究センター、リサイクル科学研究センターを併任。日本リスク学会理事、同国際委員長、ISO TC229委員などを務める。
2020年6月 花王株式会社の代表メンバーとしてMARCOに参加。
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